ふるさと探訪 其の27 福島の映画人《男優編》

 

それまでに無い、リアルな警察機構の描写が話題となり、映画化もされた『踊る大捜査線』(98)。舞台となる湾岸署の副署長を演じたのが、斉藤暁(さいとう・さとる/郡山市出身)である。中間管理職の切なさを面白さの中に演じ、一躍有名人の仲間入りを果たした。

県立郡山工業高等学校卒業。地元テレビ局に入社するも、劇団の試験に合格し上京、この道を進むことになる。86年、レオタード姿で新体操を踊るCMが人気となり、この年を契機に映画等への出演も増えていく。最近では、バラエティー番組への出演も目立つが、『天国の大罪』(92)『きけ、わだつみの声』(95)等で、味わい深い演技を見せている名バイプレーヤーである。

さて、福島の映画人(男優)を遡れば無声映画にたどり着く。

無声映画時代、現代劇における最高の人気スターと言われたのが鈴木傳明(すずき・でんめい/戸籍上はつぐあきら)である。父親が、いわき市において炭坑を経営し、更に醸造業を営み、東京にも店を持っていた関係で上野に生まれるが、一カ月後にいわき市に移り住んでいる。就学に際し東京に戻るが、スポーツ選手としてもその才能を開花させている。特に水泳は得意で、中学卒業時の東京湾横断記録の樹立、全日本大学水泳大会での優勝、第6回極東オリンピックでのリレーでの優勝など、輝かしい記録が残っている。

傳明と映画との関わりは、彼が明治大学に進む頃、松竹キネマが創立されたことに始まる。文筆業を志していた傳明は、その一助にという考えから同俳優学校に応募し合格してしまうのである。この時の講師には、作家久米正雄の名が見えるのも因果か。 その後、独立プロ「松竹キネマ研究所」の研究生となり、その第1回作品『路上の霊魂』(20)に出演し好評を博すが、この時は学生であったため、To Go Thereをもじった芸名「東郷是也」(一般的にはコレヤとよばれていた)で出演していた。しかし、これが実話雑誌で暴露され、学生スポーツ選手にあるまじき行為ということで映画を断念する事になる。

大学卒業後に日活京都に入社し、活動を再開する。第1回作品は、溝口健二監督の『塵境』(24)であった。当時の日本人としては珍しい長身と、彫りの深い容貌はたちまち人気を集め、松竹に移ってからも、田中絹代など大女優との共演がその人気に更に拍車をかけ一時代を築き上げた。その後映画会社を設立するが、トーキー時代の到来に無声映画は興行力を欠き、傳明の名声も回復することは無かった。

戦争悪化とともにいわき市に戻り炭鉱会社を継承、常磐炭業会会長なども務めた。戦後は、衆・参院選に都合3度立候補するも、政界入りは果たせなかった。85年この世を去っている。

現在に目を転じてみると、真っ先に思い出されるのは郡山市出身の西田敏行(にしだ・としゆき)と、会津若松市出身の佐藤慶(さとう・けい)であろう。

西田は、俳優を志し15歳で上京、明治大学在学中に日本演技アカデミーに入学、大学は中退し、本格的に演劇の世界に足を踏み入れることになる。その後青年座に進み、その庶民性がテレビで受け人気者となる。

映画での初主演は、『悪魔が来たりて笛を吹く』(79)での金田一耕助役。『天国の駅』(84)では、吉永小百合にそそのかされ殺人を犯す役を見事に演じ、その実力が高く評価された。そして、その地位を確固たるものとしたのは、佐藤純弥監督の3大作への出演であろう。『植村直己物語』(86)では冒険家植村直己を、『敦煌』(88)では西夏軍副隊長朱王礼を、『おろしや国酔夢譚』(92)ではロシアに漂流する漁民を演じた。そしてこの間、三国連太郎との掛け合いが楽しい『釣りバカ日誌』(89)が封切られている。

日本アカデミー賞最優秀主演男優賞は2度、『敦煌』と『学校』(92)で受賞している。

次の佐藤は、地元市役所産業課に勤務しているが、演劇活動に身を入れすぎ馘首。52年俳優座養成所に入りこの道を歩み始めている。

映画初出演は、小林正樹監督の『人間の条件第3・4部』(59)で、その後、同監督の作品には連続的に出演し、養成所同期の仲代達矢とも数多く共演している。知性と野性を持ち合わせる特異なキャラクターは映画に欠かせない存在であり、大島渚や新藤兼人などの作品に数多く出演している。

福島にもなじみの深い『鬼婆』(64)では、パナマ国際映画祭の最優秀男優賞を受賞している。

その他、「とんぼのめがね」の作者で知られる、詩人額賀誠の息子で俳優の倉田爽平(くらた・そうへい)は広野町の出身。『四十七人の刺客』(94)で、宮沢りえの父親役で好評を得た佐藤B作(さとう・びーさく)は福島市飯坂町の出身である。

参考文献

  • 『日本映画人名事典 男優編』
  • 『映画俳優事典 戦前日本篇』