鈴木 定吉(すずき さだよし)

 

(1909年5月21日から1995年7月)

福島県会津高田町橋爪の農家の長男に生まれ、生涯を水田農業に捧げた鈴木定吉。その傍ら、日々の暮らしから生まれてくる思いや祈りを「言葉」に託し、創作し続けたもう一人の定吉(鈴木哀華・虹岡小百合・邑沢園生)。

明治42(1909)年5月21日生まれ。創作活動は早くから行っており、東京の雑誌に投稿をしていた。昭和2年(1927)、18歳の年に、鈴木哀華のペンネームで『なげきの歌手』『野道』の童謡集を発行した。他にも虹岡小百合のペンネームで詩劇・小説・戯曲を手がけている。主な創作活動は昭和10年代までに行われた。

後年は、会津高田町ペンクラブの創設に尽力し、その初代会長を務めた。会報である『高田文学』創刊号(S44.7)の挨拶「種を蒔き培い育てよ」の中で、このように述べている。

「人間が意志と感情を有ち、思考をする知慧を与えられている所謂人間である以上、生まれながらにして詩人であり、創作家であると云え得ましょう。日々の生活の喜怒哀楽か歌心に繋り、希望や半生が物語そのものであるのに、人々の多くはそれを純化することなく、或は有望の大樹かも知れぬ芽を、伸ばさずじまいになっているのです。私は文学の形態や表現技術については云うべき資格はありませんが、社会生活の平和のためにも、高度文明の誇のためにも、人間自体の生存の糧として、人間のみか有する言語と文字で形成する所謂ペンの意義を、強調し啓発したいと思っております。」

この創刊の挨拶に、定吉の創作活動の原点とその活動の場を故郷・会津高田とした意志が表明されている。

昭和50年(1975)には、『童謡集還幼』、昭和52年(1977)には『稚誦耄呟』を出版した。『童謡集還幼』では、その標題のとおり、幼い頃の身近な動植物などを題材にしたリズムのある童謡が、280余り収められている。「詩はあくまで詩うべきもので、如何なる形態にせよリズム感が生命、基本である」(『稚誦耄呟』「あとがき」より)というとおり、思わず口ずさみたくなるような愛らしい詩が収められている。中でも、昔話から題材を取った「カチカチ山」「浦島太郎」「マッチ売りの少女」「かぐや姫」等が目を引く。また、高田の年中行事を題材にした作品「彼岸獅子」「俵引き」や独特の方言で語られる「かんじけろ」がある。

詩作に限った創作活動ではなかったが、本人は童謡詩に一番愛着を感じていたようである。

一方、大人向けの作品に目を向けると、『高田文学 5』(S48)に随筆「石臼の伝説」、『高田文学 11』(S54)に戯曲「表彰状」発表している。「石臼の伝説」は、藩政時代の会津地方の農民の暮らしや会津藩のエピソードなどが記されている。「表彰状」は、東北の農村の旧地主一家が、戦後の農地解放に翻弄されていく様を描いている。いずれも、厳しい現実を見据えた作品である。地方に住む無名の人々の生きざまを、時代を超えて後世に伝えていく必要性を認識していた現れではないだろうか。

同じ高田町出身の公家裕、蛯原由起夫ら多くの文人たちと親交を持ち、『高田文学』の発行などを通して、後進の育成に力を尽くした。また、戦時中故郷に疎開していた農民詩人・渡部信義を文学仲間と共に支え、生涯その詩作を支援し続けた。

平成7年7月、86歳で逝去。町議会議員を勤めるなど郷土の発展にも貢献し、公私共に高田に終生を捧げたと言える。

 

参考文献

  • 『会津高田町史』会津高田町
  • 『会津若松市史 15』会津若松市
  • 『高田文学』高田ペンクラブ 他

〈振興課:佐藤加与子〉