福島の児童文学者 31 新開ゆり子

 

新開 ゆり子(しんかい ゆりこ)

(1923年3月25日から2004年7月11日)

作家、詩人。本名は、ユリ子。1923(大正12)年3月25日、相馬郡高平村(原町市を経て、2006年1月1日合併により南相馬市に改称)の農家に生まれる。高平尋常高等小学校高等科を卒業。幼少時代、親族による連帯保証書偽造のため、実家は山林と田畑を失なった。田畑を取り戻すための裁判が、父亡き後も続き、法廷で敢然と闘う母の姿を見て育つ。この出来事が、のちに「社会や組織の不正、人の心の歪みと汚れについては決して許さない、妥協しない確かなる信念を持っていた」*1と評される執筆活動へと繋がっていったと思われる。18歳の時、農業技術指導員の新開真一氏と結婚し、1942(昭和17)年に福島市へ移った。その後、詩を創り、福島短歌会会員でもあった夫に倣うように、短歌の世界に入る。真一氏の影響は大きく、夫の書棚で宮澤賢治と出逢い、夫の仕事を通じて農民の実態を知ったという。1950~51(昭和25~26)年には、児童文学者協会福島支部の同人誌『メルヘン』(『芽生え』を3号より改称)に参加し、活動の場を広げていく。

『メルヘン』廃刊後は、詩作に転じた。1969(昭和44)年に自費出版で詩集『炎』を発行、1973(昭和48)年には第2詩集『草いきれ』*2(自費出版)を発表した。「阿修羅心に憑かれて書きつづけて来た」と記された『炎』は、1971(昭和46)年、第14回農民文学賞を受賞している。 受賞を機に、出版社に勧められて、児童文学第1作目となる『ひよどり山の尾根が燃える』(牧書店 1973)を出版した。詩の中で表してきた農民の姿を児童文学として伝え始めたのは、50歳の時であった。

子どもたちに語る農民の歴史

地域の名所をモチーフにした創作民話も残しているが、新開氏の児童文学の中心は、「児童歴史文学」「歴史小説」と呼ばれる作品群である。中でも、凶作に苦しみながら、懸命に助け合って生きる農民の姿を時代背景や農業政策の問題と共に、繰り返し書いている。その源には、幼児期に母から繰り返し聞いた故郷の移住民の歴史や、移住民だった先祖のことを涙ながらに語る姑の思いがある。故郷には、天明の大飢饉で多くの民を失った相馬中村藩が、百姓法度という定めにより住む土地を自由に決められない時代に、復興のため、北陸の農民を移住させた歴史があった。危険を冒して故郷をあとにし、新たな土地へ移り住む農民と、藩の命を受け移民を支えた少年僧の苦難を描いたのが、第2作目の『虹のたつ峰をこえて』(アリス館牧新社 1975)である。「今、のどかに見える農村風景のうらにも、こんなでき事があったのを知ってもらいたい」との思いで書いたこの作品は、方言を用いて力強い。なお、1976(昭和51)年には、第22回青少年読書感想文全国コンクールの中学校課題図書に選ばれている。

農民の歴史を描いた他の作品には次のものがある。昭和初期の大凶作の中で闘う農村の母と子を希望と共に描いた『いつでも風の中を』(金の星社 1980)。『虹のたつ峰をこえて』の続編で、天保の大飢饉後に越中五箇山(富山県)から相馬中村藩へ移住し、二宮仕法のもとに生きる少年を主人公とした『海からの夜あけ』(アリス館 1981)。そして、同じ天保の大飢饉の時、食べ物を求めて他藩からやって来た人々を救った実在の人物早田伝之介の功績を書いた『空を飛んださつまいも』(金の星社 1985)。新開氏は、飢餓を乗り越え郷土を支えて来た農民の姿を、何度も子どもたちに伝えた。

『海からの夜あけ』の最終章に、天保から明治の時代を生きた主人公が、移民の心を子孫に伝えるため記念碑を建てる場面がある。紙に書くのではなく、碑に刻むことを決意した理由をこう書いている。「たとえ世のなかがどのように変わっていこうが、人間が生きていくかぎり、食い物を作らねばならん。その食い物を作るのは百姓や。その気持ちをもちつづけるものこそ、わしらが子孫じゃと思って、書き残すことに決めたがい。」

社会の急速な変化を受けて、身近に歴史を語る大人がいなくなり始めた子どもたちへ、親から受け継いだ先祖の思いを語り、子どもたちが担う未来に警鐘を鳴らしたのではないだろうか。


1976(昭和51)年より、日本児童文学者協会会員となる。児童文学作品は『サロマ湖のほとりから』(金の星社 1991)以降出版されていないが、1994~95(平成6~7)年にかけて、雑誌『農民文学』に、連載小説「それでも水は流れる:古川善兵衛弔魂歌」を発表し活動を続けた。

晩年、生涯で2度目となる裁判を経験する。1987(昭和62)年から幾度かにわたり原作者の許諾を得ずに作品を上演した原町市に対し、1994(平成6)年著作権侵害を訴えた。1996(平成8)年の福島地裁の判決では敗訴したが、2000(平成12)年の仙台高裁でようやく和解が成立した。その間に夫と息子を病気で失なった。自らも病を患いながらの辛く長い闘いであった。 農民や地域の歴史を子どもたちに語ってきた児童文学者は、2004(平成16)年7月11日、肺炎のため永眠した。享年81歳であった。

参考文献

『日本児童文学大事典』大日本図書 1993

『農民文学』日本農民文学会 No246,No253

〈児童図書研究室:樫村幸子〉

*1 「追悼 新開ゆり子さんを偲ぶ」片平幸三 (『日本児童文学』No554)p108
*2 1970年にガリ版刷りで同名の詩集を発行している。