貴重郷土資料探照 9「大河平隆綱関係資料」

 

大河平隆綱は、天保13(1842)年生まれ、鹿児島藩士・児玉喜藤太の三男(註1)。同藩士の大河平六郎兵衛隆恭の養子となる。幼名・三弥、元服して勝。明治元(1868)年、鹿児島藩の長島副地頭、同4年には民事奉行となる。

明治15年から16年、土木県令、鬼県令として名高い三島通庸のもと、北会津郡長などを務める。会津三方道路開削工事に関連して、「六郡連合会臨時会開設請求書」その他の文書中に、名前が見える(註2)。明治16年10月には、山形県に採用され、東置賜郡長、飽海郡長、西置賜郡長などを歴任。「磐前県職員録 明治5年」中の県典事・大河平隆贇(タカスケ)は、その一族である。

2003年には、所縁の宮崎県えびの市で「大河平家遺品展」が開催された。藩主・島津斉彬(1809-58)の国学の師・後醍院真柱は、大河平家の出身。展示目録には、会津藩・松平容保の短冊も見え、松平・島津の関係の一端が推察される。伝存する大河平家資料のうち、福島県関係のものが、隆綱の曾孫・大河平良子氏のご好意により、昨年、当館に寄贈された。内容は、知事名のある文書、会津にある鉱山の試掘現場視察の復命書、田圃にする見込みのある湿地についての報告、地図類など、公文書や、その控・草稿、隆綱の辞令の写し等である。控や草稿とはいえ、正式文書との比較など、研究価値は高く、当時の状況を窺い知るための重要な資料である。

国立公文書館に保存される文書にも、名前の散見される隆綱だが(註3)、歴史書の記述を見る限り、当時の権力者としての類型的な人物像しか思い描けない。が、原資料を前にすると、かつてそこに生きた人としての存在感が、身近に伝わってくる。当館所蔵資料中には、個人的感慨の窺える記載はないが、えびの市に遺る書面に、自らを「貧乏郡長」と記したものもあるという。赴任先の資料を几帳面に保存し、子孫に遺すなど、その人柄も偲ばれる。

資料が伝えるものは、文字や図版など「記載されている情報」だけではない。当時の秘められた思いや、受け継いできた人達の心などを、静かに語りかけてくる。大切に継承されてきた資料が、今、図書館に手渡された。その訴えるところを聴き取り、思いを伝え、未来へ繋ぐ役目を果たすために、今度は図書館の出番である。

註1:天保12年という記録もあり。後出の大河平良子氏(東京在住)のご教示による。その他、本稿の執筆にあたり、大河平氏には、大変お世話になりました。深く御礼申し上げます。

註2:『福島県史 第11巻 資料編』『喜多方市史資料叢書 第3集 宇田文書(近代Ⅰ)道路開鑿事件顛末書』『喜多方市史 第6巻 中 資料編 4』などに収録。

註3: 国立公文書館目録データベースシステム(http://www2.archives.go.jp/)

〈地域資料チーム:阿部千春〉