福島の蔵書印 -その34- 佑賢堂の蔵書印

 

江戸時代から明治初期、福島県内の藩校の数は11校。そのうち、日新館(会津藩)、敬学館(二本松藩)については、以前この項で取りあげたことがある(註1)。

佑賢堂は、平藩の藩校。宝暦年間(1751-64年)、藩主・安藤信成の時代に、施政堂(シセイドウ)が創建され、後、明治2(1869)年に佑賢堂と改称。同年、一般庶民の入学も可能となった。明治4年に廃校。

藩校は、基本的には、自藩のための教育機関であるが、平藩では、他藩からの志願者には試験を行い受け入れる制度もあった。近隣の藩校・汲深館(泉藩)、致道館(湯長谷藩)とは、「左伝」の合同講義を行った。藩校間での学問交流は、当時としては珍しいことという。また、磐城七藩(平・泉・長谷・中村・三春・棚倉・守山)の最高学府の観があったと評されている(『いわき市史 6 文化』)。

教科内容は、「四書五経、左伝、史記、漢書、国学、小学、通鑑、廿一史、その他」(註2)というが、安政年間(1854-60年)には、武学が加えられ、文久初年(1861年頃)には洋法の砲術を取り入れるなど、近代化につとめた。この時期、いわき地方は、数多の逸材を輩出。藩校と関わりのある著名人として、鍋田晶山(三善)、神林復所、室桜関、大須賀?(イン)軒などがいる(註3)。清水の次郎長の養子となり、次郎長を描いた『東海遊侠伝』で有名な天田愚庵も、佑賢堂で学んだ。

上掲の印影は、当館所蔵『書経集註』(当館請求記号123.2/S/2)から採録したものを、画像処理して掲載した。5.2×4.2cmの朱印である。なお、施政堂の蔵書印は、『いわき市史 6 文化』に収載されている(口絵・カラー図版3)。

*註1『福島県郷土資料情報 10』『同 35』

*註2『日本教育史資料 1』(『福島県教育史 1』より)

*註3 鍋田晶山、大須賀?軒の蔵書印は、『福島県郷土資料情報 4』『同 9』で掲載。神林復所については『同 39 貴重郷土資料探照3』を参照