福島の児童文学者 22 高野正巳

 

明治38(1905)年3月3日、福島県西郷村に生まれる。国文学者、児童文学者。旧姓荒井。父親の市太郎は転勤の多い警察官だったため小学校時代は県内を転々とした。養父は演劇学者、文学博士、「故郷」「朧月夜」「紅葉」などの作詞家でもある高野辰之。

大正6(1917)年に福島県立相馬中学校(現相馬高校)に入学。旧制水戸高校を経て、東京帝大国文科を昭和4年に卒業、昭和16年に『近世演劇の研究』で九州大学より文学博士の学位を受ける。

昭和19年宮城県古川中校長、21年奈良女高師教授、30年東京女子医科大学教授などを歴任、国文学者として活躍した。

子どもの頃は、おばあさんからお話を聞かされて育った。「毎夜おばあさんは、きまって、むかしむかしと語りだしました。いろりにはほたびが、あかあかともえ、じさいかきにかけた、なべには、えだまめがプツプツと、おとをたてながら、にえていました。」。著書『かっぱのこうやく』(同和春秋社刊・昭和29)には、そのころ聞いた昔話が下地となったお話も載せられている。中には行方の國(現在の鹿島町・原町市・小高町・飯舘村)や宇多の國(相馬市・新地町)、岩城の國(いわき市北部)などを舞台として創作した話もある。

児童文学を書き始めたのは、旧制水戸高校に在学中のことである。雑誌『金の星』大正13年1月号に中村信郎の名前で投稿した「弟戀しい杜鵑(ほととぎす)の話」が一等当選。その時の二等に当選した久米元一と親交を持ち、後には久米の実家に下宿することになる。翌年1月号の牛の郷土童話懸賞募集に「金べーこ」で一等当選。「小雷」(大正14年7月号)、「化けくらべ」(大正14年10月号)、「こんこん姉さん(ペンネーム:眞鶴純子」(大正15年4月号)と発表している。

その後、国文学の教養を生かして、『太平記』『平家物語』『雨月物語』『国姓爺合戦』など、多くの日本古典の児童向け訳本を執筆している。また、学生時代から柔道を始め講道館に入門して、後に5段まで取得した関係からか、児童向けの伝記として『嘉納治五郎』も執筆している。

『日本古典名作集』(偕成社刊:昭和36)の解説「日本の古典文学について」をみると高野正巳の古典に対する情熱が感じられる。また、子どもたちに向けてわかりやすく現代語文にしているが、「大きくなったら、原作のいぶきをじかに味わってください」とメッセージを添えている。

昭和28年10月号の『国語と国文学』(至文堂刊)に「現代の少年文學」という論文を載せている。ここで小川未明や鈴木三重吉など当時の児童文学者を評している。その中で、「子供にとつては現實の生活にないものは未來の世界にあると信じてゐるのであつて、そこにかれらの夢があり幸福があるのだから、これを無理に現實に眼を向けさせてそこまで引きずりおろさうとするのは惨酷なことである。」として、当時の生活童話中心の児童文学に疑問を投げかけている。また、日本古典の児童向け翻訳についても「ややもすると國體觀念、武士道、忠節の精神とかといつたやうな封建思想の鼓吹のために惡用される虞があるから注意しなければならない。」としている。国文学者としても児童文学者としても、一流の思想をもって創作活動をしてきたといえる重みのある発言であろう。

後年、母校相馬高校の「馬城会文庫」の発足に際して著書の寄贈や同窓生への呼びかけなどをし、その充実のためにも貢献した。

参考文献

  • 『つねづね草』銀河書房
  • 『相中相高百年史』相馬高等学校
  • 『佐藤佐次郎児童文学史』金の星社
  • 『複刻版・金の星』ほるぷ出版 他

〈振興課:佐藤加与子〉