巻頭随想「二十一世紀の市民社会の創造と図書館」 中田 スウラ 氏

 

今後の新しい時代、生涯学習・高度情報化社会の中で、図書館は、市民の主体的な生涯学習を支援する社会的条件整備としてますます重要な機能を担うだろう。図書館は市民の生活創造に必要な情報提供を行い、その生涯学習を支援し、地域自治を担う主体的な市民の形成に大きく寄与するはずである。市民一人一人の生活スタイルに対応した情報収集を、図書や視聴覚メディア等の提供により可能とするばかりでなく、時には必要な人的ネットワークの形成をも促進する場合もあるだろう。その意味からも二十一世紀の図書館は、コミュニティ・ネットワークの要となり、地域社会の再生を担うキー・ステーションと期待されている。  

二十一世紀の市民生活の創造に際し、何を豊かさとし何を基本的〈価値〉とするかを求めるために、私たちは、それまでの既存の生活や既存の文化・価値観を問い直すことが必要であろう。しかし、この〈問い〉は容易ではない。自らの生活経験を、その内側から批判的に吟味す ることは困難である。自らの生活経験を他者の目を借りて見つめ直す契機を得るため、自分の生活経験とは異なる新たな情報を私たちは得ようとする。他者の生活経験を理解し、異生活・異文化の持つ 差異と共通性から学び、自らの生活を再生させるためである。そこに、私たちが、図書館を利用し、図書等の情報を収集する意味がある。新たな市民生活を創造する自己変革の鍵の一つは、図書(記録化された情報)との出会いに見いだせる。図書は、時間と空間を越えて、この出会いを可能とする。

こう実感する背景には、私は経験、『被抑圧者の教育学』(パウロ・フレイレ著、一九七九年)との出会いがある。学生時代、教育学をかじり始め、日本国憲法の第二五条(生存権の保障)に対応し第二六条(教育権保障)があることを学び、義務教育制度の意義を確認した頃である。「教育」に関する基本的理解を次のように捉えた。経済的自立・社会的自立・精神的自立の獲得を意図し、子どもの成長・発達を支援する教育は、いわゆる「読み・書き・算数」と言われるような基礎学力の修得を基本とする。この理解は一般的理解である。生活をしていく上で不可欠な識字教育の必要性を前提とした教育観であろう。しかし、フレイレは識字教育の持つ二面性を鋭く批判していた。ブラジルでの識字教育実践から、ブラジル原住民が公用語である「英語」の識字教育を受ける過程で英語圏(白人社会)の持つ文化的価値を伝達されそれを受容していく結果、ブラジル人としてのアイデンティティを確立できないという教育問題を指摘していた。アイデンティティの喪失を内包する識字教育を、生活技術(読み書き)の獲得というレベルで無批判に容認できるか否かの問題をフレイレは突きつけていたのである。なぜならば、アイデンティティの確率にこそ教育・学習の意義があるとも言えるからだ。識字教育に潜むヒドゥン・カリキュラムの問題を前にして、改めて、学習権宣言(一九八五年)にある「学習権とは、読み書きの権利であり、問い続け、深く考える権利であり、想像し創造する権利であり、(中略)自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」であるいう宣言の趣旨を理解できたように思う。自分の直接の生活経験からだけでは捉えがたいこのような発見に導いてくれた図書との出会いを忘れることはできない。そしてこの図書との出会い、換言すれば時間と空間を越えた他者の持つ生活経験とその智恵との出会いを与えたのは、他ならぬ図書館であった。この図書館の価値は、情報メディアの変化があるにしても二十一世紀へと継承されるに違いない。

中田 スウラ(なかた・すうら)
福島大学教育学部教授。福島県立図書館協議会会長